「お話しできることはありません」中森明菜に感じた悲劇の影(日刊ゲンダイDIGITAL)

出典元:記者会見する中森明菜(C)日刊ゲンダイ

【平成芸能界直撃30年史/青山佳裕】(1)

 平成の幕開け1989年7月、血まみれの中森明菜(23=当時)が慈恵医大に緊急搬送された。マッチこと近藤真彦(25=同)のマンション浴室で自殺を図り、左肘内側に深さ2センチ、長さ8センチの神経に達するほどの重傷を負ったのだ。手術は6時間に及び、レコ大2年連続大賞受賞の歌姫は死線をさまよう。衝撃のニュースが日本中を揺るがし「どうして」の声が上がる中、「やっぱり」との感想もあったのである。そんな悲劇を予想されるような影、危うさ。渋谷公園通りを上がってきた明菜を直撃したときも感じられた。

 名刺を渡し、質問を投げかける。

「お話しできることはありません」と、コメントを拒絶する。その声は小さく、こちらと目をほとんど合わせない。ステージで「少女A」などを歌う姿とのギャップ。そんなに気の強いタイプではなかったのだ。今で言うところのオーラも感じられなかった。

 明菜は東京都清瀬市出身。6人きょうだいの5番目、三女だ。ツッパリの兄姉と違い、おとなしいお母さん思いの少女時代を過ごし、美空ひばりさんに憧れ歌手を目指したお母さんの夢を引き継いだ。自分の夢は結婚し、お嫁さんになること。だから歌手で売れても、そこがゴールではなかった。

 六本木アマンド横の坂を下りたところのレンガ色のマンションと、通りを隔てたところのマンション。スープの冷めない距離を行き来しながら、二十歳で結婚し引退した百恵さんの姿を思い描いていたのが分かる。しかし、その夢は木っ端みじんに砕け散った。ワイドショー、スポーツ紙、そして雑誌と、芸能マスコミはこぞって明菜を追いかけた。路上でのカーチェイス、体を張り合い、撮った撮られたで揉めていた時代。

 芸能人のスキャンダルは早朝からのTVの一番の人気で、権利とか名誉は二の次だ。この年の大晦日、夜10時から新高輪プリンスホテルで近藤と会見した明菜の、場違いな金屏風を背にした戸惑いの表情にカメラのフラッシュが激しく明滅していた。バブル絶頂の享楽ムードと正反対の、そこだけ時が止まったような孤独があった。

■麻布十番のスナックで「カナダからの手紙」をデュエット

♪たかが恋なんて、忘れればいい~

 シングル「難破船」は低音でそう歌いだし、泣きたいだけ泣いたらと続く。そういう気概で本人もいたのだろう。数年後、完全復活へ向けて、ひとりレッスンする場面を見た。焼き肉で飲んだ後、噂で聞いた麻布十番のカラオケスナックの扉を開けると、レーザーディスクの並ぶ店内に明菜はいた。グラスには洋酒のロックが揺れていた。

 たまたま誕生日だった同行の記者に、「一生の思い出にって、デュエットを頼んでみなよ」と向けた。免許証を手に、おずおずと明菜に近づき、ぼそぼそと話すと、明菜は立ち上がって、マイクを握ってくれた。

 平尾昌晃と畑中葉子のデュエットで大ヒットした「カナダからの手紙」。もしもあなたが一緒にいたらと、記者が歌いだすと、どんなに楽しい旅でしょうと明菜が受ける。

♪ラブレター、フロム カナダ~

 で声が合わさる。プロの歌唱は滑らかで力があり、伸びやかであった。

 明菜はまだ20代。そして、この後も難破船のように浮き沈みする人生が続いていく。

(聞き手=長昭彦/日刊ゲンダイ)

▽あおやま・よしひろ 1954年、東京生まれ。美空ひばりの時代から取材歴40年。現在も週刊誌などで活躍するベテラン直撃記者。

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